囚人検事と見習い操縦士


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●七

 4日目。晴れてはいるが、ひときわ風の強い朝だった。
 今日も粋子は廃屋の洗面台で、最低限の身支度を整える。鏡の中の自分がだんだん荒んでいくのはとりあえずあきらめたが、色違いの歯ブラシが2本並んでいる光景にはまだ慣れない。

 着替えはといえば《おまわり》のTシャツぐらいしかないので、それ以外は、洗っては乾燥機で乾かして着る、の繰り返し。夕神がいつもこざっぱりとしているのは、同じような繰り返しをしているせいかどうかはわからない。彼らはほとんどの時間を別々に過ごしていた。
 殺人犯だからって、誰彼かまわず命を奪おうとするわけではない。当たり前のことがやっと彼女にもわかってきたが、夕神が近寄りがたい人であることには変わりはなかった。

 ラジオによると発達した低気圧が近づいていて、今晴れている地域も午後から天気が崩れるということだった。発達した低気圧――飛行機乗りにとっても、この状況にとっても、ありがたくない言葉だ。風雨が強まれば、捜索は中断されるだろう。

 予報通りその日は、昼過ぎから雨になった。
 することがなく退屈になり、粋子は館内を歩いてみることにした。別館はひと通りチェック済みなので、展示室のある本館へと足を向ける。2つの棟をつなぐ渡り廊下の窓からは、うっそうとした森が見えた。今日は低く垂れこめたモヤに霞んでいる。

 廊下を歩いて行くと、本館の暗がりに展示室の扉がいくつか見えてきた。思った以上に光がない。この先は照明をつけてからがよさそうだ。たしか、キッチンの隣に配電室があったはず。そう思って戻ろうとした時ふと目に入ったものに、彼女はドキリとした。一番大きい扉を塞ぐように、黄色いテープが張り渡してある。刑事ドラマとかで見る、立入禁止のテープだ。テープの何本かは、はがれて床に垂れ下がっていた。

 みつるぎの旦那って人が扱った事件、きっとその現場だ。あそこで一体なにがあったのだろう。ふと不気味さを感じて、粋子は来た道を小走りで引き返した。別館に戻ると、薄暗い廊下に館長室から明りが漏れていた。その明りに妙にほっとして、なかを覗いてみる。
 夕神が窓際に立ち、滴の流れるガラス越しに灰色の空を見上げていた。

「あの。いま本館のほうに行ってみたら‥‥」

 粋子は入口から声をかけた。夕神の肩にいたギンが先に、首を回してこちらを向く。
「展示室に黄色いテープがはってありました。立入禁止って書いてあるやつです」
「ほう」
「ここで、どんな事件があったんですか?」

 夕神が振り返って、窓枠に軽く体を預けた。
「おめえさんが着てる、そのシャツの絵‥‥」
「ご、ゴホンのおまわり?」
「あァ。その絵をめぐる事件さァ」
「盗難かなにか‥‥?」

「殺しだ」
 夕神はなんの逡巡もなく言った。
「え‥‥!」
「加害者はここの元館長だ。被害者は警備員」
「か、館長が!?」 
 まさに今いるこの部屋のあるじだった人。最新の家電を揃え、高感度ラジオを所有し、さらには保存食を溜めこんで私たちの命をつないでくれた‥‥その人が人殺し‥‥?

「やっこさんは、その絵を守っていた警備員を撲殺しやがったのさ。あの展示室でなァ」
「撲殺‥‥‥」
 殺人犯から、殺人の話を聞いている。雨に打たれる薄暗い廃墟の中で。粋子は、背中にすうっと冷気を感じた。
「元館長はムショでも何度か見かけたが、えらく弱っちぃオッサンだったなァ」
「そんな人が‥‥? 何か事情が、あったんですかね?」

「いいかァ」

 夕神はいつにも増して低い声で言った。こちらを見る目がきらりと光ったような気がした。「人を殺すような奴ァ、救いようのねェクズだ。情けなんざかけてやる必要はねえンだよ」
「‥‥‥」
「クズってェ意味は、わかるよなァ?」
 彼はさらに刺々しく言う。
「は、はい。すみません」
 思わず謝ったものの、夕神の言いっぷりに彼女は小さな違和感を覚えた。
 遠くでゴロゴロと雷鳴がとどろき、ギンと粋子はなぜか目が合った。


◎ ◎ ◎


 夜になると、雨も風もますます強くなっていった。風はごうごうと恐ろしいほどに吹き荒れ、壁や柱をミシミシと軋ませる。叩きつける雨は滝のように窓を流れ落ちていく。2階に上がってだいぶ経つが、粋子はまったく寝付くことができなかった。雷雲は頭上に近づき、明りをつけていても、さらに強い稲光が室内を昼間さながらに照らす。



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