囚人検事・番外編

□十二月
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 茶を一気に飲み終えると、夕神は太い唸り声を上げて伸びをした。大きい手で、近くに放り投げてあった白いレジ袋をつかむ。
「今日は、朝から冷や汗かきっぱなしだぜ。風呂貸してくんなァ」
「風呂っ?」
「風呂ぐれェあンだろ?」
「2階にありますけど‥‥‥す、座っててください! ちょっと片付けてきますから!」

 すぐにも2階に行きそうな夕神を両手で押しとどめ、彼女は立ちあがった。事務所の奥にある狭い階段をのぼる。いったい、どういうつもりなのか。粋子の頭は混乱していた。あのレジ袋には、どうも着替えの下着類も入っているようだった。
 2階の入口で靴を脱ぐと、短い廊下の先に風呂と洗面がある。あとは板張りの狭い台所と、二間つづきの和室だ。住み込みで働くためのつくりで、かつては、社長が暮らしていた。

 粋子はさっき使った風呂と洗面をチェックし、タオルを用意し、念のため、和室のほうもざっと片付けてから、階下に戻った。
 夕神は、ソファの背に頭をあずけて目を閉じていた。今日あれだけのことが起きたのだ。相当に疲れたはずだが、穏やかな表情だった。まつげの下の黒々とした隈も、前髪の白くなったところも、彼が一人っきりで耐えてきた証しだと思うと、胸が切なくなる。
「あの。どうぞ」
「むぅ」
 ゆっくり目を開く。天井の明りがまっすぐに落ちて、灰色がかって見える瞳は少しだけ潤んでいた。


 和室には、ちゃぶ台と茶棚とテレビがある。社長が住んでいたときのままなので、すべてが古めかしい。粋子は念のため、布団の敷いてある奥の部屋のふすまをきっちりと閉めた。風呂場からのシャワーの音が止まると、またドキドキしてきた。ちゃぶ台には、彼が「ほらよ」と渡してくれたレジ袋が置いてある。

 夕神は、長い髪をタオルで拭き拭き、かもいをくぐって部屋に入ってきた。慣れた場所かのように自然に粋子の隣であぐらをかく。白いTシャツに、下はいつもの黒い細身のパンツだ。彼は袋からペットボトルを一つ取り出し、水をぐびぐびと飲んでから、ドライヤーを髪にあてた。
 黒いくせっ毛はふわふわと乾いていく。夕神がここにいて、自分のドライヤーで髪を乾かしていることに、粋子は現実感が持てない。
 おおかた乾くと、夕神は手早く髪を一つにしばる。いつもの彼の姿になった。

「成歩堂ってェ弁護士は、タダモンじゃねえなァ。御剣のダンナの太刀を斬り返すたァ驚きだぜ」
 彼は粋子を見て、クククッと笑う。
「私は、最初からわかってましたよ」
 彼女もふと笑みを返した。それを見て夕神は、優しく目を細める。
「ようやっと、笑いやがったな」
 夕神は笑みを浮かべたまま、粋子に片手を伸ばした。頬に触れる温かい手。大きい手で首の方まで包むと、ゆっくりと顔を寄せてくる。微笑む男の唇が近づく。

「ちょっと! 夕神さん!」
 粋子は焦って、身を引いた。
「なンだ!」
「こっ、心音さんのことはいいんですか!?」
「ココネだァ?」
「心音さんは、今、ど、どこにいるんですか!?」
「事務所の連中と、打ち上げでもしてンじゃァねえのか」
 夕神はすこし面倒そうに言って、また顏を寄せる。

「ちょ、ちょっと待ってください!」
「おいおい。おめえさん、今までとえらく様子が違うじゃァねェか」
「だから‥‥あの‥‥」
「どうした」
 低く言いながら、彼はもう動きを止めず、まず彼女の頬にキスをした。それから口の端に触れる。やわらかい感触、唇にかかる熱い息。しびれるような快感が体を突き抜ける。
 その思いを必死に振り払って、粋子は、Tシャツの硬い胸を両手で押し返す。

「待ってくださいってば!」
「なんだってンだ。上司の誘いも断って、スッ飛んで来たってェのによォ!」
「夕神さんは、心音さんを守るために命をかけたんですよね?」
「ああ。あやうくオダブツになるところだったぜ」
「心音さんのために、7年もカンゴクにいたんでしょ?」
「ああ」
「そして心音さんは‥‥」

「ッたく、さっきからココネココネうるせェなァ!」
 夕神は大きく言った。彼女の抵抗を封じるように軽く抱いて、畳の上に押し倒す。そして、すぐ近くで彼女の瞳を覗き込んだ。
「いいかァ。俺が抱くのは粋子、おめえだ」
 横たわった彼女を押さえつけるように、男は体を乗せた。
「おとなしく抱かれろ!」
 その言葉に不釣り合いな優しさで彼女の髪を撫でると、深くキスをする。大きい体の重みと触れ合う心地よさに力を失い、粋子は目を閉じ彼のなすがままに身をゆだねた。空の騒音はすべて消え去り、聞こえるのは夕神の乱れた息づかいと、自分の名を呼ぶ低い声。そして、心の中で繰り返し彼の名を呼ぶ自分の声。

(おわり)


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