囚人検事・番外編

□三月
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三月


「夕神さんって」
 春の陽が差し込む特急電車に、粋子と夕神は並んで座っている。夕神は長い脚をシートになんとか押し込めて、折りたたみのテーブルで駅弁を開いている。
「ん?」
 箸を運びながら彼は粋子に目を向けた。

「いちども、言ってくれてないですよね」
「何をだ?」
「好き、とか、付き合おう、とか」
「グウッ」夕神は突然の言葉に目を剥いた。「や、やぶからぼうに、なにを言い出すンだおめえはよォ」
「いつも実力行使っていうか」
 粋子は、自分のテーブルに向きなおって、駅弁の白いご飯をぱくりと食べる。

「実っ‥‥」そこまで言って夕神は絶句した。

「そういう人とこうやって温泉旅行っていうのも、どうなのかなってフト思って」
「ここへきて、ンなことをフト思うンじゃァねえ!」
「私は言ってるのに‥‥夕神さんのこと好きって」
「も、モノノフってェのはなァ」言葉をかぶせるようにしゃべり出す。「そういうもンを軽々しくクチにしねェのさ」
 彼は最後の一口を食べ終え、駅弁の紙箱をガサガサと片付け始めた。電車は3時間近く走って、もうすぐ目的地だ。車窓には、のどかな山あいの風景が流れている。

「モノノフ‥‥?」
「あァ」
 彼は粋子の弁当を、大げさに覗き込んだ。
「おめえ、早くソイツを食い終わンねェと、あと10分もすりゃァ着いちまうぜ」
「あっ、はい」
「温泉ってェのはなァ、難しい話しに行くもンじゃァねェ。タマシイの洗濯に行くもンだ。そうだろ?」
「うん‥‥」

 夕神は、粋子の頭にぽんと手を置き、子供にするように撫でさすった。
 モノノフ‥‥彼の使う言葉は、時々意味がわからない。そしてよくわからないまま、こうやって煙に巻かれる。いつものことだが、彼女は彼の真意をはかりかねて、釈然としないのだった。


 ◎ ◎ ◎


 宿の部屋に案内されると、夕神は一息つく間も惜しんで、離れにある温泉に入りにいった。彼は、いつでもどこでもお風呂が大好きだ。粋子も彼がいない間にとりあえず浴衣に着替える。
 よく磨かれた板間に立って窓を開けると、青葉の香りが吹きこんでくる。窓の下は緑が茂った渓谷で、小川の清涼な音がした。その音をしばらく聞いてから、彼女は、窓際の椅子に腰を下ろす。この宿を取ったのは夕神だ。なぜこんな場所を知っているのだろう。

「いいあんばいに熱ィ湯だったぜ。おめえさんも入ってきたらどうだい」

 片方の肩に白いタオルをかけ、夕神は部屋に戻ってきた。髪の跳ねた毛先だけが、まだ少し濡れている。彼の浴衣姿は、はっとするぐらい新鮮だった。紺柄の生地に、低い位置で締めた帯もさまになっている。さっき仲居さんが、彼を見上げて特大サイズに取り替えてくれた浴衣は、裾がくるぶしのまだだいぶ上だが。

「夕神さん、浴衣似合うね」
「ヘッ。おめえこそ悪くねェぜ。他の男にゃァ見せられねェな」
 片手をあごにやり、見おろすように彼女を眺めてニヤリと笑う。粋子は少し照れて、着慣れなくてゆるんだ襟もとや、開いた裾を整えた。

「私の浴衣姿‥‥好き?」
 夕神はタオルを律儀に伸ばしてタオルハンガーにかけている。
「ああ」
「好き?」
「悪くねェ」

 なんとかその言葉を聞き出したいが、彼はわかってかわからずか、同じ言葉を繰り返しただけだった。
 夕神は畳の上にどっかりとあぐらをかいた。そうすると、丈の足りない浴衣の裾が開いて、筋肉のついた内腿と、その奥のほうまで見える。
「ちょ、ちょっと! 夕神さん、なか見えるよ!」
 粋子は目のやり場に困って言った。



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