剣と虹とペン

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 目線を合わせて言葉をかけられたことが嬉しくもあり、ただの労いでしかないことが悲しくもある。「田舎に帰るんです」「お見合いをするんです」そんなことまで口にしてしまいそうで、彼女はあわてて、ドアの前で一礼をして部屋を出た。

 ドアを閉める瞬間、この部屋に入るといつもかすかに漂う紅茶の香りを吸い込む。‥‥‥最後の思い出に。


 ◇ ◇ ◇


 大手新聞、速報新聞社の別館。
 古びた、廃屋のようにすら見えるレンガ張りのビル。手垢で黒ずんだ木の両開き扉を開けると、薄暗く狭いホールの正面に階段がある。次野奈理は、低いヒールの靴でその階段を3階まで駆け上がった。空調の効きが悪い館内はむっとしていて、秋口ながら汗がにじむ。

 階段を昇りきった正面には、くすんだガラスに昔風の書体で『法律速報社』と表示した扉がある。それをそっと開け、彼女は中かがみになって自分のデスクに向かった。
 一番奥にある編集長の机をキャビネットの陰から覗く。―――いない。

(ほっ)
 奈理はひと安心して、自分のデスクに座った。
 週明けは早朝から本社での会議があり、社長も兼ねる編集長はそれに出席後、この零細子会社での編集会議を開く。本社会議が終わってここに戻って来るまでに全員が出勤していないと、編集長はきわめて機嫌が悪い。

 見回したところ、他の記者連中もまだ着席していて会議は始まっていないようだ。記者として一番下っ端の奈理は、月曜日だけは遅刻するわけにはいかなかった。

「次野!」

 奈理は、いきなり呼ばれてびくっと椅子から立ち上がった。
「はいっ!」
「ちょっと来なさい」
 編集長が奥の会議室から顔を出して、奈理を呼んでいる。

(やばい。もう戻ってたんだ‥‥‥)
 彼女は首をすくめて呼ばれる方へ急いで向かった。狭い会議室では、編集長が一人座って出迎えた。テーブルの上には茶封筒が置いてある。
 奈理が恐る恐る腰を下ろすと彼が口を開いた。

「君は、入社してどれぐらいだったかな」
「半年です」
「だったら、わが法律速報の現状はわかってるな?」
「現状?」
「売上だよ」
「あ‥‥‥はい」

 ここ最近、状況がかなりシビアになっているのは当然奈理もわかっていた。競合する刑法新聞がセンセーショナルな記事で売り上げを伸ばし、ついに先月、販売部数が追い抜かれてしまった。零細とはいえ歴史ある法律速報の初めての敗北だ。

「君には、社運をかけた大仕事を頼みたい」編集長は低い声で言った。
「えっ!?」
「地方検事局への潜入だよ」
「せせせ潜入?」
「刑法新聞が、ああやって内部事情に詳しい記事を次々にすっぱ抜くのは、内偵記者を送り込んでいるという噂がある。われわれも負けてはいられない」

「わ、わたしが、ですか?」
「いろんな意味で若い女性が一番いいんだよ」
「は、はあ‥‥‥」
「検察不祥事が今一番ホットな話題だ。不正、腐敗、堕落、何でもいいから特ダネをつかめば巻き返せる」
「‥‥‥」
 奈理は言葉に詰まるが、意に介さず編集長は続けた。
「問題は、ターゲットを誰にするかだ」

 彼は、茶封筒から大きく引き伸ばされた写真を何枚か出し、テーブルの上に広げる。
「候補の1人目はこの検事。父親の事件が有名だ」



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