剣と虹とペン
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しかし男は軽く頷くだけで、こちらを見もしないで通り過ぎる。
今後近づくためにも顔を売っておかなければ、と奈理は必死にその背中に向かって呼びかけた。
「御剣検事!」
御剣は立ち止って振り返った。不審そうにひそめられた眉の下に、整ってはいるが鋭い眼光の目があり、それがぎろりと彼女を睨みつける。
「なんだ!?」ひどく不機嫌そうな声だ。
(こわっ)
奈理は一瞬だじろぐ。が、このチャンスを無駄にはできない。
「あの、本日入局しました事務職員の次野と申します!」
彼女は、せいいっぱい口角を上げてあいさつをした。
壁ランプの光が御剣の顔に陰影を落とし、ただでさえ険しい表情がさらに凄みを増している。緊張とちょっとした恐怖で、自分の笑顔が徐々にひきつっていくのが奈理にはわかった。
「ああ、ご苦労」
御剣は奈理に冷たい視線を向けたまま面倒そうにそれだけ言うと、また身を翻して去って行った。
(か、感じわる‥‥)
緊張がおさまってくると、奈理の心にはむくむくと反発心が沸き起こった。‥‥‥なにあれ。ちょっと仕事ができてちょっとかっこいいからって、なんかすごく偉そうでイヤな感じ。奈理は写真で見た時の第一印象が正しかったことを確信した。
◇ ◇ ◇
その夜、奈理は入社以来住んでいる社宅の狭い部屋に戻った。ベッドに寝転がって編集長から渡された御剣に関する大量の資料を読む。
―――御剣怜侍。地方検事局のエースにして天才検事。
史上最年少の20歳で検事になっている。その当時の写真が、これ。
「ぷはっ」
彼女は思わず吹き出した。今の服も相当だけど、それを上回る派手派手しいデザインの上着。赤いスーツの襟が金糸やら金ボタンやらで飾られていて、まるで古めかしい王子様のようだ。顔立ちも、たった数年前なのに今より随分若く見える。‥‥高慢な感じは今と同じだけど。
法廷デビュー以降、彼が担当した裁判記録の数々に奈理はざっと目を通した。初法廷からしばらくして、御剣には証拠捏造などの黒い噂がささやかれ始める。指導者の狩魔豪という検事の影響を色濃く受けていたらしい。彼らは有罪を勝ち取るためには手段を選ばないとも言われていた。廊下で会ったときの御剣の冷淡な態度と目つきを思い出して、さもありなんと彼女は思う。
資料のページをパラパラとめくっていると、2016年の記録が目に入った。
「2016年か‥‥‥」
編集長が、御剣を知るためにこの年の記録は特にしっかり読んでおけと言った年だ。年号に赤丸がついている。「あ〜でももう今日は疲れた!」
奈理は隣にあるテーブルの上に資料をバサッと投げて布団をかぶった。
翌朝、奈理と先輩が事務室で作業していると、赤いスーツの男が一番にドアの外を通り過ぎて行った。
「今日は御剣検事にも紹介できるわね。毎朝やることは一緒だから、私の動きをよく見て覚えてね」
そう言って先輩は新聞と郵便物を片手で持ち、もう片手でポットを持つ。奈理もその後をついて、1202号室に向かった。先輩は新聞を抱えたほうの手で器用にドアをノックした。
「入りたまえ」中から低い声が聞こえる。
御剣は執務机に向かっていた。その背にある窓にはワインレッドの優雅なカーテンがかけられ、壁際にそれと統一感のあるソファが置いてある。書棚も机の上も、どの検事の執務室よりすっきりと整頓されていた。
フレーバーのようないい香りがうっすら漂っているけど、これは何だろう? 奈理はその部屋の華麗かつ整然とした雰囲気になんとなく気圧されながら思った。