剣と虹とペン

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 気配のするほうをのぞいてみると、高い位置にあるファイルに手を伸ばしている男の後ろ姿があった。グレーがかった茶色い髪、白いシャツに黒いベスト。赤い上着は棚の空いているところに無造作に置いてある。

(あ‥‥‥)

 御剣はシャツを肘のあたりまでまくり上げていて、男らしく筋肉のついた前腕が目に入る。厚みのある肩、広い背中‥‥‥意外とたくましいんだ‥‥‥。奈理はそう気づいて、なぜかどきんとする。

「こんにちは」
 響也も気づいて先客に声をかけた。御剣はその声に振り返り「ああ」と応えるが、彼女には目も向けない。
「12階の奈理ちゃんをお借りしてます」響也は、御剣に軽く敬礼してみせた。

「奈理、ちゃん‥‥‥?」

 御剣は怪訝そうにゆっくり繰り返す。

(ドキーーーッ!!!!!)

 奈理は衝撃のあまり、持たされたファイルをぜんぶ取り落としそうになった。

「‥‥‥ああ、彼女か」そう言って御剣はちらと視線を向けた。

 な、なんだ今の衝撃は‥‥‥。ガリューに奈理ちゃんと呼ばれた時よりも何倍もドキッとした。あの人の口から、奈理ちゃんって‥‥‥。苗字だって呼ばれたことは一度もない。いつも、おいキミ、とか、そこのキミ、とかそんな感じだ。

「どうしたの? 顔赤いよ?」響也が聞いてくる。
「なんか、この中暑くて」
「暑い?」
「はい‥‥‥」

 御剣は、職員の名前は憶えない人だった。事件関係者の名前なら瞬く間に覚えるらしいけど。先輩の名前も何年かしてからやっと覚えたと聞いた。たぶん今この瞬間にはもうわたしの名前なんて忘れてるに違いない。だけどこの心臓の鼓動は一体なんなのだ。奈理はひとり焦っていた。

「はい、これで最後だよ!」
 響也は奈理が両手で抱えたファイルの上に、もう数冊を乗せる。近くの棚にいる御剣にまたちらりと見られ、彼女は言った。
「あの。御剣検事のもあったら一緒に運びますけど」
「もう持てないだろう」御剣は淡々と言う。

「女の子にこんなに持たせてゴメンね」響也が困ったように微笑む。
「ぜんぜん大丈夫ですよ!!!」
「こないだ裁判中に突き指しちゃって」
「裁判で突き指!?」
「そう。それ以来、指は大事にしてるんだ」
 響也はその指をしなやかに動かして、エアギターをかき鳴らし始めた。奈理の頭の中にもギターのメロディが流れる。

「あたり前ですよ! ガリューウエーブのリーダーがギター弾けなくなったら、みんなどんなに悲しむか。指、大事になさってください!! あ、そっちの3つもわたしが持ちます!!!」
「サンキュー。奈理ちゃん」
 さらに響也が持っていたファイルを積み重ねられ、彼女は一番上をあごで押さえる。

 その時、フッ、と鼻で笑う声が聞こえた。

(なに!?)
 彼女がぱっと振り向くと、御剣が片頬に薄笑いを浮かべた顔を逸らす。
(な、なんかイヤな感じ)奈理は頬がカッと熱くなる。
「暑い?」もう一度響也は聞いた。奈理は今度は首を振った。

 響也に誘導されて奈理はファイルを13階の彼の執務室まで運ぶ。
 壁は全面防音クッションで覆われ、大小いくつもあるアンプの上には書類が積み重なっていた。あちこちにギターが立ててあって床にはコードのようなものが何本も這っている。
「床、気をつけてね」響也はそのコードのようなものを足で払いながら言った。
(これがあのガリューの執務室なんだ‥‥‥)
 彼女はどうしてもきょろきょろしてしまう。そして彼が指定した一番大きいアンプの上に抱えてきたファイルを置いた。

「ありがとう!」
 響也は最後、また柔らかい笑顔で見送ってくれた。



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