剣と虹とペン

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 いないかもしれない‥‥‥でもいてほしい。怒られるとしても、なぜか今日はもう一度彼の顔を見たいと思った。

「入りたまえ」
 中からいつもの低い声が聞こえ彼女はほっとする。ドアを開けると、御剣が顔を上げてこちらを見ていた。奈理は閉めたドアのすぐ前に立ったまま、交番に被害届を出してきたこと、糸鋸刑事が来てくれてとても助かったことなどを一通り報告した。そして頭を下げる。
「ほんとうに申し訳ありません!! わたしがぼうっとして歩いてたから‥‥‥」

「キミは被害者ではないか。謝る必要はない」
「でも大事な書類が‥‥‥」
「書類はこれからなんとかする。大丈夫だ」彼は口の端を上げて言った。穏やかな目をしていて全然怒っていない。
「ありがとうございます」
 もう一度頭を下げたとき、さっきからずっと感じていた恐怖と不安が消え去り、不覚にも涙が出そうになる。

「ム‥‥‥」
 その唸り声に奈理が顔を上げると、御剣は彼女の足元を見つめていた。
「そこに座りたまえ」御剣は突然、壁際にあるワインレッドのソファを人差し指でびしっとさした。
 彼女がびっくりして固まっていると、彼は椅子から立ちあがる。
「そこだ!」
 鋭い声で再び指示され、奈理はドキドキしながらソファに近づき腰を下ろした。ほどよい柔らかさの座り心地のいい椅子だった。御剣の自宅のソファの座り心地によく似ている。

 御剣は執務机を回ってツカツカと彼女の正面まで歩いてきたかと思うと、片膝を立てて彼女の足元にスッとひざまずいた。
(え!?)
 奈理はビクッとして体をぎゅっと縮める。
 御剣は彼女の動揺などおかまいなしに、スカートから出た彼女の膝小僧を間近でじっと見た。

「やはり怪我をしているな。転倒したのだろう」その目は険しい。
「あっ。はい」言われて彼女が焦って自分の右膝を見ると、薄いタイツが破けて少しだけ血がにじんでいる。
「処置は受けていないようだが?」
「糸鋸刑事にも怪我はないかと聞かれたんですけど、大したことないと思って言わなかったから‥‥‥」
「ではこれは調書も取ってないんだな。まったく‥‥‥」眉間に皺を寄せて彼は言った。

「す、すみません」
「いや。キミではなく‥‥‥」彼は少し困った顔で彼女を見上げた。自分の足元にいる御剣はひどく距離が近くて、奈理は体中が熱くなる。彼はその姿勢のまま腕時計を見た。
「医務室ももうこの時間は閉まっているな」
「大丈夫ですよ。ほんのかすり傷ですから」
「しかし、消毒ぐらいはしておいたほうがいいだろう」彼は立ち上がって執務机に戻った。
 引き出しを開け閉めしながら「他に痛むところはないだろうか?」と声をかけてくる。

「いえ他には。御剣検事、本当に、あの‥‥‥平気です」奈理はソファから腰を浮かしながら言った。
「犯罪被害の手当をしないまま帰すわけにはいかん。キミが平気でも私は違う」
 御剣は少し怒ったように言った。

 彼が小さい救急箱を探し出してきて、また目の前にひざまずこうとするのを奈理はあわてて止めた。
「あああの、自分でやりますから」顔が火照る。たぶん真っ赤になってるに違いない。
 彼はそんな彼女を見て、自分もうっすら頬を染め「それもそうだな」と救急箱を手渡した。


 執務室を出ると、奈理は事務室まで廊下をゆっくり歩いて戻った。
 御剣は、多くの犯罪被害者を見てきた検事だ。被害者側に立った経験もしてきた人‥‥‥。だからこんなに気にかけてくれるのだろう。もしかしたらこの出来事をカバーするために彼のほうがよほど大変かもしれないのに、そんなことはひとことも言わずにいてくれた。
 彼のそばにいる時間が、さっきは全然怖くなかった。むしろ‥‥‥あんな出来事のあと彼のそばにいると守られているようでとても安心した。
 そう気づいて奈理は心底驚き、廊下の真ん中で立ち止まった。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、奈理は編集長からひったくり事件の記事を書くように言われて原稿を提出した。もちろん自分を特定されないように曖昧に書いた内容だ。
 紙面に掲載された記事は、さらに跡形もなく修正されていた。十分に管理されていない裁判資料、犯罪者の手に渡る重要情報‥‥‥。検事局と裁判所の安全管理のずさんさを指摘する記事だった。編集長はぬかりなく過去のひったくり事件も調べ上げ、盗まれた資料が裁判に与えたと思われる影響も考察していた。

(これは事実無根ではないし、下世話なゴシップでもない。でも‥‥‥)
 彼女は自分の気持ちと記事がどんどんかけ離れていくのを感じた。

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