剣と虹とペン

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 この季節、早くも窓の外はすっかり日が落ち、冬の澄んだ夜景が広がっている。
 段ボール箱は御剣、棚のファイルは奈理と分担され、彼女は執務机で作業することになった。

 彼女がおそるおそる黒い執務椅子に座ると、体が埋もれてしまいデスクがやけに遠い。その様子を見て御剣はふっと笑って近づいて来た。彼女が座っている椅子を後ろから抱え込むようにしてレバーを操作し、高さと背もたれの角度を調整する。
 御剣に肩のあたりから覗き込まれ、「これでいいかね」と聞かれて奈理はドキンとした。彼が近くに来ると、いい香りがまた微かに漂った。


 奈理は棚から順番にファイルボックスを運んでは、証拠品が紛れ込んでいないか、ファイルを1ページずつめくって行く。潜入記者としては、書類の中身を知るまたとないチャンスではあったが、大量の情報が目の前を通り過ぎるだけでそこから何かを得る余裕はなかった。

 彼女は作業の合間に一息ついて顔を上げる。執務机からの風景はとても新鮮だ。
 右手にワインレッドのソファ、壁には大きい額縁。ずっと絵か何かだと思っていたが、御剣の昔の服と気づいた時には驚いたものだ。正面には立派な木製のドア。‥‥わたしがいつも怯えながら入ってくるところ。
 そしてそのドアの左脇で御剣が、こちらに背を向け床にあぐらをかいている。彼は段ボールから書類の束を出しては中を確かめ、別の箱に移す。黒いベストの背中は広くてたくましい。



 長い時間、彼らはひたすら単純作業を続けた。時計は夜10時を回るがまだ証拠品は見つからない。御剣は人手が多いほうがいいだろうと、箱が一つ終わるごとに事務官に電話を入れていたが誰にもつながらなかった。

 彼は床から立ち上がって、また携帯を取り出した。

「今夜は、もしかしたら誰もつながらないかもしれませんよ」
 奈理は手を止め、執務机から声をかける。

「どういうことだろうか」
「いちばん古い事務官さんの誕生パーティなんですよ。メール来てませんでしたか?」
「言われてみれば来ていたような気もするな‥‥」
 奈理はその場所が地下のお店だったことを思い出し、電波が届かないのかもしれないと御剣に言った。こんな風に検事から呼び出されることがないように、わざとその店が選ばれたのではとも思ったが、それは言わないでおいた。

「キミは行かなくてよかったのだろうか」携帯を後ろポケットにしまいながら御剣が言う。
「え? はい。大丈夫です」
「あとは何とかなりそうだ。そんなパーティがあるのなら行ってもらってかまわないが」
「まだだいぶ残ってますから、いくら御剣検事でも一人じゃきついですよ。それに‥‥‥」
 彼女は作業に戻りながら言った。「わたし、誕生会って苦手なんですよ。あのハッピーバースデイの歌とかケーキのロウソクを吹き消すのとか」

「ほう? なぜだろうか?」御剣は不思議そうに聞いた

 奈理はふと顔をあげ、彼の瞳を見つめ返したまま逡巡する。

 御剣には家族がない―――編集長はそう言った。
 あの話をしたとき、編集長の筋書きにあったのはこれだ。こういう話をわたしにさせたかったのだ。御剣の弱みを狙って近づくため。

「ち、父が生きていた頃を思い出すからでしょうか」

 奈理はやっと言った。そして胸がドキドキしてくる。あの作戦は終わったはずなのに、こんな話をしている自分に。
「では父上は‥‥」御剣は眉根を寄せた。
「はい。もう亡くなりました」
「そうか。思い出させてすまなかった」

「いえ。もう10年以上前のことですから」
 なぜかすらすらと言葉が出てくる。「本当は憧れてるのかもしれませんね‥‥誕生会。父が亡くなった後、一度もしてないから」

「‥‥私も長いこと誕生会などしていないな」
 御剣はそう言うと、また床に座り込んだ。

 その背中を見て、奈理の胸には突然強い感情が沸き起こる。

 ―――この人の心の、もっと近くに行きたい。

 それが任務のためなのかそうでないのか、もうどちらでもよかった。


 ◇ ◇ ◇


 真夜中近くなり、御剣にもう帰っていいと言われるのを奈理は断った。彼女も、裁判に備えて仮眠してはどうかと提案したが、御剣は徹夜は慣れていると言って手を休めなかった。彼らが少しだけ休憩したのは、御剣がどこからか取り寄せた夜食をとったときだけ。あとは黙々とひたすら作業を続けた。



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