タクミくん(long story)

□月下の誓い(ギイ×託生)※
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「ありがとうございました……」

挨拶をする声が聞こえた直後、カンカンカン、と鉄階段を降りてくる足音が聞こえる。
現れたのは、癖のない真っ直ぐな黒髪を襟元で揃え、清潔な身なりをしたすらっとした細身の青年だった。

葉山託生、23歳。
親兄弟はおらず、天涯孤独な身の上の青年で今日まで世話になったアパートの大家に最後の礼を済ませ、旅に出ようとしていた。

(荷物は持ったし、パスポート……もある。もともとそんなに家具類はなかったけど、残ったものは処分してもらえるように頼んだし、大丈夫だよな……)

「よし、行こう……っ!」

託生はうん、と伸びをすると歩き出した。

思い描く夢のため、ヨーロッパを目指して船に乗るのだ。

著名な音楽家を多数輩出している音楽の本場であるヨーロッパの音楽を身体で感じたい。そして、それを自分のものにしたい、という想いがあった。
子どものとき、まだ両親が健在だった頃、習っていたバイオリン。
両親と共にドライブに行った先で不慮の事故にあい、託生だけが遺された。
他に身よりのいなかった託生は施設に入り、新しい環境に慣れることに必死で、忘れてしまっていたバイオリン。
中学のとき、かの天才バイオリニスト井上佐智の演奏を聴き、心惹かれ、またもう一度弾きたくなった。
でも、環境が許さず、その気持ちは心の奥に鍵を掛けてしまい込んだ。
その鍵をあけることが出来たのは、高校卒業を間近に控えた2月半ばのことだった。


施設長の北里佐和子に呼ばれ、託生は応接セットで向かい合って座った。
彼女は託生にニッコリと微笑むと、ゆったりとした口調で話し出した。

「託生さん、お誕生日おめでとう。今日で18歳になるわね……」
「はい、ありがとうございます、先生」

佐和子の言葉に託生は小さくそう返した。

「話というのはね、これをお渡ししようと思って……」

目前のテーブルについ、と差し出されたものは一冊の通帳とケースに入った印鑑だった。

「……先生、これは……?」

託生は訝しげに佐和子を見つめた。

「……これはね託生さん、あなたのものなの。あなたのお父様とお母様のご遺産、というべきかしら……?」
「ぼくの両親の……?」

託生は佐和子を見つめ、問い返した。


それもそのはず、託生は父と母が遺してくれたものがあったなんてまったく知らなかった。

「これはね、わたくしの判断であなたが18歳を迎える時までお預かりしていたものなの。何を勝手に、とあなたは怒るかも知れないけれど……」

何をどう返せばいいのかわかず、黙ったまま静かに時が流れ、不意にカーン、カーンと鐘の音が響き渡り、託生は我に返った。

「……見、せてもらっても……?」
「えぇ、勿論。それはあなたのものなんですから……」

ぎこちない手つきで、通帳を手に取りそっと開く。

「……っ!」

そこには、託生の想像をはるかに越える金額が示されていた。

「……先生、一度頭を整理したいんです。これ、もうしばらく預かっていていただけますか?」
「そうね……確かに突拍子もないお話でびっくりしたわよね……わかりました。考えが纏まったら声をかけてくださる?勿論ほかにもなにかあればいつでも仰ってね……」
「はい……よろしくお願いします」

託生はぺこりと頭を下げると、応接室を後にした。


それから数日経ったある日、託生はまた佐和子の前に座っていた。

「……先生、ぼくの話聞いていただけますか……?」
「えぇ……どうしたいか決まったのかしら?」
「はい……」

託生は頷くと、口を開いた。


「……ぼく、小さい時バイオリンを習ってたんです。そんなに上手だったわけじゃないけど、弾くのは大好きだったのを覚えてます……」

佐和子は口を挟もうとはせず、静かに耳を傾けてくれている。

「……ぼくが中学生の時、慰問コンサートで井上佐智さんが来られたことありましたよね?あのとき、ぼくもう一度バイオリンを弾きたい、ってそう思ったんです……」

託生はゆっくりと自分の考えを口にした。

「ぼく……またバイオリンを始めようと思います……。両親が遺してくれた中からそのための楽器を購入したいと思って……。残りは当座の生活資金だけいただいて、こちらに寄付させていただきます……ほんの僅かですけど……」

託生はそこまで一息に言い切ると、佐和子をジッとみつめた。

「託生さん……有り難いお話だけれど……それはあなたのご両親があなたに遺してくださったものなのだから、あなたのものなのよ?」
「いいんです。ぼくはこちらでお世話になれて幸せでした。こんな形でご恩返しというのもなんですが、受け取っていただけますか?」
「……ありがとう。大切に使わせていただくわね……では改めてこれをお渡しするわね……」

佐和子は託生の前に通帳を滑らせた。

「あ、りがとうございます……っ!」

託生は大きく頭を下げ、礼を言ったのだった------
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