TOY

□ほら、逃げない
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(セトと蛇)


みんみんと鳴くセミには押し付けられた人間の言う情緒なんて関係ない。
今日も忙しなく競うように鳴き続ける彼らは地上の美しさを、飛ぶことができるという歓喜を、あなたが好きだという見たこともないメスへの求婚を、叫んでいる。
元気だなあと思いながら、店頭に花を並び終えた俺は肩にかけたタオルで汗をふきながら空をあおいだ。
晴天、洗濯物も外に出しすぎるとぱりぱりになってしまいそうな陽気だ。
俺はいったん店の中に戻って、腰のエプロンを軽く整えながらアンティークな深緑色のじょうろに蛇口をひねって水をそそぐ。
ばしゃばしゃと勢いよく入っていく水をぼんやり見つめるうちに、そういえば俺はどうして能力を使ったわけでもないのにセミの声が聞こえたのだろうと思った。
ハッとして顔を上げる。
もしかして俺、コントロールしきれてない?
鏡に映る慌てた表情の俺、しかしその目はいつものようにくすんだ黄色のままだった。
あれ、じゃあ、何で?


『どうしたの?』


「うわあ!」


首をかしげると同時に蛇に話し掛けられたものだから驚いた。
ご丁寧に「盗む」は鏡に俺の体を借りてたたずんで俺の顔色をうかがっていた。
びっくりした、赤色の細められた目は以前にも見たことのある。
蛇特有の姿に俺はホッとして、どうしたのと奥から声をかけてくれた店長に「すみません、なんでもないですー」と大きな声で返した。
見ればじょうろからは水があふれていたものだから、これまた慌てて水を止める。
たぷんたぷんのそれは重くって、我ながらやっちゃったなーと思ったけれど今は蛇の疑問に答えることを優先した。


「脅かさないでほしいんすけど」


『ご、ごめん……そういうつもりじゃなかったんだけど……』


鏡の中の蛇はもじもじと胸の前の指先に視線を落としながら言う。
丸で数年前の自分のような性格の蛇には毎度のことながらもう少ししっかりできないかと言いたくなる。


「セミの声が聞こえた気がしたんだけど、もしかしてあれも君のせいっすか?」


『ちっ、違うよ!?ボク最近は何にもしてないよ!?』


必死に言う俺は体格に見合わなすぎてあきれる。
この体は俺ので目の前にいるのは蛇なのだから、体格に違和感を覚えるのも今さらのような気がするけれど。
ひとまず蛇の言葉を信じるなら、あれはやはり俺の思い過ごし、気のせいだったのだろう。
前にセミの声は何度も聞いたから、だから思い出しただけだったのかもしれない。


「そっか、ならいいっす。ごめんね、心配かけて」


優しいこの子はいつも俺のことを心配してくれるから。
まあ、こうやって話しかけてきたり姿を見せたり?することはあまりないので、だからこそ俺は驚いたのだけれど。
考えてみたらこの蛇は毎回、タイミングをうかがっていたのかもしれない。
声をかけるタイミングを。
俺が昔、そうだったように。
手を伸ばして彼の頭を撫でてあげようとしたけれど、指先は当たり前のように鏡に衝突して彼に触れることは叶わなかった。


『ううん、ボクこそ、いつも迷惑かけちゃって』


「迷惑なんかじゃないっすよ」


指紋がついてしまった鏡。
その中で蛇は首をかしげる。
昔から、考えてることが分かっちゃうこの目を嫌がってたのに。
そう言いたいのは痛いほど分かる。
だけど俺は蛇に首を振って見せた。
鏡の内側の「盗む」は可哀想なくらい赤い目をたっぷりの涙でにじませている。


「だって「盗む」がいなかったら俺はキドにもカノにも、マリーにも会えなかっただろうと思うっすから」


ね、と笑ってみせると蛇は少しだけ安心したように、ぎこちなく笑い返してくれた。
じょうろを持って仕事に戻る。
鏡に背を向け、何となく気になってもう一度振り替えると、そこに蛇はいなかった。
代わりにそこにはいつもの風景と、俺の指紋だけが残されていた。
店頭に出て葉を避けながら根本に水をやる。


『ありがとう。ボクもね、君に宿ることができてよかった』


聞こえたのは蛇の声で、じょうろにぼんやりと映った俺の顔は照れたような笑い顔を浮かべていた。
ありがとう、そう「盗む」が言ってくれた。
俺は本当にこの蛇が俺の蛇でよかったと思ってるんすよ?
だからそんなに、気が引けたように気を使ってくれたお礼のように笑わないで。
人の心が分かるのは確かに、嫌な面も見えてしまうから昔は嫌いだったけれど。
だけどいつかはみんな、あんな現実と向き合わなきゃならないことは当たり前だ。
だから、嫌な面が見えたっていいんだよ。
「盗む」のお陰で俺は、今も前に進めるから。



 ほら、逃げない

 title by:告別














セトのバイト先には花屋があったので、ずっと書きたいと思っていた花屋でバイト中のセトを。
セトが働いているならば毎日でも通いたい。

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