いろいろ

□ぱしゃり、まっすぐに落ちる
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男性は他の撮影スタッフに呼ばれて小走りに人混みに紛れてしまった。
ふと社長の向かったトイレの方を見ると、明るい水色と白のワンピースを着た彼女がこちらに向かって歩いてきている。
いつもとは全然違う装いに思わず息を飲んだ。
社長は風に吹かれて橋の上で面倒そうにスカートの端を押さえていた。
赤色の橋越しに覗く海は太陽に照らされてきらきらと輝いて見える。
そんな中に立つ社長は女優といったってどこもおかしくないと俺は思った。
だって彼女はこんなにも。

「私のいない間に何かあった?」
「何も。それにしても演技なんて、社長、大丈夫?」

うっとうしそうに海風にあおられる前髪を手で押さえて社長は多くの人が集まる方向へと視線を向けた。
今は事件に巻き込まれた主人公である俳優が、家族にも被害が及ばないように妹の安否を確認しようと実家に急ぐシーンを撮影中なんだとか。
これから橋でのシーンの立ち位置を一度確認して本番だ。
まだ時間はあるらしい。

「私がやるしかないじゃない。何もしないで指を加えたままでいるのは、嫌だから」

社長は強い。
強いけれど、今その強さにはどこか脆さが見え隠れするようだった。
危うい感じがして俺は何かしてやりたくて歯がゆい。
俺はやっぱり何もできない。こういうことはからっきしだ。
そこで初めて社長の手が、指先が細かく動いていることに気がついた。
震え?まさか社長が?
そんなことないように見えても彼女は、もしかして。

「……緊張、してる?」

何言ってるのブラックくん、くらい言ってくれたらよかったのに。
彼女は弾かれたように顔をあげて苦々しい表情を見せる。
曖昧なその顔こそが何よりも雄弁に答えを叫んでいて俺は狼狽した。
励ましの言葉さえ口のなかが乾いて出てこない。
状況にあったフレーズが浮かばない時点でそれ以前の問題ともいえたけれど。
沈黙に焦らされて手のひらはたくさんの汗で冷える。
ズボンで乱暴にぬぐってくちびるを湿らすも、時間がゆっくり過ぎるだけだった。

「わ、」

これまでとは比べ物にならないくらいの風が不意に、びゅうと海面を滑って上ってくる。
強すぎるそれに反射的に目を細めるが社長はそうはいかなかったようで短い悲鳴を小さくあげた。
腕をどかして大丈夫かと聞こうとして、彼女の姿を視界にいれたことを後悔した。
後悔というよりかは申し訳なくなったというか、その瞬間は何が起こったか脳が処理しきれずに凝視してしまい、気付いてからあわてふためいたのだが。

「っ!」

ふわりと風に舞ったワンピースはご丁寧に俺の方に裏地を向けてしまっていた。
不幸中の幸いというか、そのお陰で俺以外の人間、例えば撮影スタッフとかには見られなかったのだが、ばっちり、見えてしまっていた。
見てはいけないと思ったけれどいざ目の前に現れるととっさにはそれが「それ」だなんて分からない。
彼女は見たことがないくらい顔を赤くさせていた。
喜怒哀楽をそこまで見せないタイプでもないので照れた顔も何度か見たが、これは見事に真っ赤だ。
俺も似たような顔をしているのだろうけれどそんなことを思う。
見たよね、と確認するように口が動いた。
声は耳を澄ませても回りの音に消えそうなほどだった。
俺はそろそろとうなずく。
一瞬だったよ、等といいわけをするのはむしろ火に油な気がして何も言えない。
さっきから俺は押し黙ってばかりだ。
ドッドッと忙しない心音が痛い。
彼女はうつむいて、しばらくの間ずっと黙っていた。
この状況は端から見たらどう見えるのだろう。
どうでもいいことばかりを考えて俺はやりすごそうと遠くを見る。撮影は順調そうだ。
今日もやっぱりぶぶちゃんはその才能をしっかり見せつけるかのように演技をしていて、ポカも頑張っている。

「ホワイトさん、次のシーンからお願いしたいんでこっちに来てもらえますか?」
救いの手のように聞こえた。彼女はパッと顔をあげると「はい!」と元気よく答える。
正直なところ安堵した。許してもらえないくらい怒ったんじゃないかと思ったものだから。
俺は別に、その、パンツくらい見られたって、見られないにこしたことはないがそんなに気にしないで過ごせる。
でも女の子はそうもいかないだろう。
女心ってのはむつかしいものなんだよとチェレンも言っていたし。
その言葉も確か本に書いてあったものだから受け売りで、結局はよく理解していないけれども。

「ブラックくん」

その瞬間、俺のその悛巡は無駄なものになったと悟った。
低い声だった。抑揚もついていない。怒っているのだとすぐ分かった。
ハイと言った俺の声は情けないことによわっちいものだ。
彼女は予想に反してすぐには何も言わなかった。
呼ばれているのだから、後で覚悟してねなんて言われるのかと思ったのだがどうなるのだろう。
俺は視線を反らしたのに社長は長いこと俺の目を見ていた。
実際には数秒しか経過していなかったろうけど、俺には永遠ほど長いものに感じられたのだ。
はあ、とつかれたため息には色んな思いが詰め込まれていたように思う。
おかしそうにクスクス彼女は笑った。
怒っている様子などどこにも見られなかった。

「これから死ななくちゃいけないから緊張してたのに、そんな緊張どっか行っちゃったわ。もう」

すらりとした指先が俺の顔の前まで伸びてきて、それはピンッとでこをはじいた。
地味に痛い。社長は「これでおあいこ。ね、だから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」笑い声を残して小走りで彼女は撮影の進む中に飛び込んでいく。
そのあとを俺は追うことなんてできない。
でこぴんを食らったでこに手を当てると、何だか少し熱がくすぶっているような気がした。
左右にポニーテールが揺れている。
俺は簡単な奴かもしれないなと思いながら海に視線を移した。
海に落ちて死んだフリをする予定の彼女よりもいくらか早く先に落ちたのは、俺の方だったらしい。



 ぱしゃり、まっすぐに落ちる

 title by:√9























もう発端を忘れましたがブラックがラッキースケベ的な展開に出くわした話を書きたくなったので。
社長ごめんね!
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