短編

□煙
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 大学構内にあるテラスで、僕は本を読み耽っていた。
 ふと鼻先に運ばれてきた匂いに気付いて、ページを捲ろうとしていた指を止める。煙草の匂いだというのはすぐに分かった。それでも顔を顰めるということはない。僕は未成年で、今後も喫煙者になるつもりはないけれど、嫌いな匂いではなかった。数年前に他界した祖父が吸っていたから、煙草の匂いには懐かしさが付いて回った。
 祖父の顔を思い起こしながら、今いる場所が建物の外であることに違和感を覚えた。空気が籠らない場所でこんなにはっきりと匂いを感じるなんて、いったいどこからやってきたんだろう。視線を本に落としたまま気配を伺うものの自分の座っている席のすぐ傍のテーブルはどれも開いているようだ。
 妙に気になってしまって、僕は不意に顔を上げた。
「…っ!!」
 ただ真っ直ぐ上げただけの視線の先には一人の人物が座っていた。しかもこちら向きで。
 慌てて視線をおろし、誤魔化すようにページをめくる。
 たった一瞬だったけど目が合ったような気がした。何故こっちを見ていたんだろう。こちら向きの席に腰かけていたから体がこっちを向いているのは分かるけれど、視線が合ってしまったのはどうして?
 文章にはちっとも意識が向かず、ただ意味もなく最初の三文字を繰り返し見る。しばらく考えて、きっとあの人は僕が頭を動かしたから、つられて視線をこちらに向けたのだと結論付けてやっと落ち着くことが出来た。
 わざとらしく視線を逸らせてしまったことを少々気にしながらも、僕はまた本に集中し始める。
 と。
「何を読んでるんだ?」
 テーブルに置かれた手の指の間に煙草が挟まれている。そこからゆらりと煙が出ていた。
 驚いて顔を上げれば、視線の先にいた人だ。しばらく返事をせずにいると、彼は僕の手の下にある本を指さした。
「あ、えっと…哲学系の本です。」
「面白いのか?」
「え…いや、昨日の講義で先生がお勧めの本だって言ってたんで。丁度興味のあるテーマだったし…。」
「で、つまんないのか?」
「え…っと…、まだ序盤なんで…。」
「…面白くねえもんよく読めるな。」
 曖昧な返事ばかりしていた所為か、仕方なく読んでいるように思われてしまったようだ。慌てて返す。
「いや、理屈のこねまわし方は興味深いものがあります。哲学なんて、笑って読むもんでもないでしょう?」
「ふーん?」
 僕の言葉に曖昧な相槌を打ってから、彼は僕の真正面の席を指さした。
「ここ、いいか?」
「え…。あ、はい、どうぞ。」
 椅子を引いてから思い出したようにこちらを向いて、煙草は大丈夫かと問う。僕は大丈夫と答えてしまってから、本を持ち上げて口を隠すように上体を引いた。
「あ、でも、副流煙が体に悪いっていうのは信じてるので、あまり吸い込みたくはないです。」
 体への影響を占いやまじないのように言うのは別に医学を信頼してないわけではなく、物事を曖昧にしようとする僕の悪い癖だ。
 彼は笑った。
「了解。ま、丁度風向きも変わったし、こっち向いて吸うわ。」
 そう言って椅子に横向きに腰かけ、背凭れに片肘を掛けて顔を向こうに向ける。そうして時折、どこの学部だとか他愛のない会話の中、流し目をこちらに寄こす。僕は本を閉じるでもなく、でも読むわけでもなく、視線を本に止めたまま会話に応じて、こちらもまた時折目を上げて彼を見た。
 何度目か目線を上げた時、彼は丁度僕から顔を背けて煙を吐き出したところだった。
 その顎のラインに目が留まり、何故だか僕はどきりとした。
 最初のように慌てて視線を下ろす。
 胸の高鳴りに戸惑っていると、彼は振り返った。
「何?小難しいことでも書いてあんのか?」
「え?」
「さっきから一ページも進んでないだろ?」
 言われてやっと意味もなく本を開いていたのだということに思い至って本を閉じる。
「やっぱ俺、邪魔だったな。」
「いえ、別に急いで読む必要はないんです。…家で読みます。…あの…。」
 本を閉じてしまったことで、手持無沙汰になった。これでは会話に集中するしかないのだけれど、僕は生来コミュニケーションが苦手で、何を言っていいのか分からなかった。苦し紛れに分かりきったことを質問する。
「あの…先輩…ですよね?」
「は?」
 あまりに当たり前すぎたのか、聞き方が悪かったのか、彼は何を聞かれたのか分からない風だ。
「あ、えっと…何年ですか?」
「4年。」
「じゃあ、卒論で大変な時期ですね。どんなのをやるんですか?」
 実のところ、今あったばかりの人が大変な時期だとか卒論の内容だとかに興味はない。話題を探してそこに行きついてしまっただけのことだ。
「ん?『人口の推移と経済』っての。」
 そう言えばさっきから自分が質問されて答えていただけだったから、彼がどの学部にいて何を専攻してるのか知らなかった。





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