短編

□奏でる想い
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 断崖絶壁の高台の上、海を臨むその宿は湯治の温泉として知られていた。そしてまた、一部の金持ちの間では美人の女を買える湯屋として有名だった。
 その宿から緩やかな坂を下りていくと、小さな漁村がある。宿に泊まる殆どの客がその港を利用しているが、入り江が入り組み、暗礁が多いこの漁村に外から船が来るのは希なことだった。
 陸路はというと港以外の全てを断崖に覆われていて、宿の裏手の絶壁に辛うじて作られている細い小道を上ってくるしかなかった。まさに陸の孤島だ。
 そんな宿が続いているのは、美しい遊女たちとそれを買う富豪のお陰だろう。
 今年で十になる志乃[しの]はその宿の下働きをしていた。
 幼い頃に両親を亡くした彼女は宿の女将に引き取られ、それ以来そこで暮らしているが、自分を不幸だと思ったことはなかった。なぜなら、女将が彼女をめっぽう可愛がっていたからだ。それに、美しい姐たち(遊女たち)にも可愛がられていた。まだ幼い彼女は姐たちの仕事を理解していなかったし、女将は意図して彼女に気付かせないようにしていた。

「奏[かなで]ねえさま。洗濯物はありますか?」
「ああ、そこのを持ってっておくれ。」
 奏がそう答えると、隣の部屋のふすまが開いて琴[こと]が顔を出した。
「志乃、こっちもお願いね。」
「はい、琴ねえさま。」
「笙子[しょうこ]はさっき自分で持って行ったみたいだけど」
「はい、受け取りました。今、女将さんと何か話してます。」
 志乃は洗濯物をまとめて桶に入れると、よいしょ、と持ち上げて、少々覚束ない足取りで洗濯場に戻っていった。
「あらあら、大丈夫かしら。」
「この間、そこの階段踏み外してたものね。」
 心配そうに見つめる二人の目には、優しさと幾ばくかの陰りが含まれていた。
「真面目で良い子よね…」
 奏のその言葉は本心だ。志乃を末の妹のように思っている。ここの女たちは皆、女将に引き取られてここに来た。同じように可愛がられ、同じように姐を慕って育ってきた。

 …だからこそ…



 洗濯を終えて次の仕事に移ろうと宿の入り口近くを通りかかると、ちょうどお客が入ってきたところだった。
 志乃はまだお客の前に出ないように言われている。さっと身を隠し、自分が出て行っていい頃合いを図る為に聞き耳を立てた。
「あら、笹野様、いらっしゃいませ。お久しぶりでございます。」
 女将が客を笹野と呼んだのが聞こえて、志乃はドキリと身を固めた。
 姿を窺うためにそっと覗いてみる。
 笹野栄助[ささのえいすけ]と名乗るその人は、商人だと言っているがどこかの旗本か大富豪の子息ではないかと噂されている。とても金払いの良い上客だ。
 奏の固定客であり、想い人だと志乃は認識している。そして、栄助の整った顔立ちや立ち振る舞いに、志乃も密かに憧れを抱いていた。いつかあの人のお世話をしたい、と心に秘めている。
「志乃?志乃!」
「は、はい!」
 突然女将が呼んだことに驚き、慌てて物陰から出てしまった。
「そんなとこに居たのかい。まったく、裾をお直しよ。お客様の前だよ。」
「す、すみません。」
「まあいいわ。急いで奏を呼んでおいで。笹野様だって言えばあの子も飛んでくるだろうさ。」
 はい、と返事をして早足で立ち去ると、女将が「すみませんねぇ。まだ躾がなっていませんで。」と謝罪しているのが聞こえた。
 きっとほんの子供だと思われただろう。志乃は少々悔しい面持ちで、でも奏にそんな顔を見せるわけにはいかないと気を取り直す。
「奏ねえさま。笹野様がおいでです。」
 部屋の前でそう声を掛けると、奏はハッと顔を上げて急ぎ足で玄関へ向かった。
 嬉しいんだろうなと思って見ていると、自分の前を横切るその顔は前に見た満面の笑みではなく、どこか悲しげだった。
「…奏ねえさま…どうかしたのかな?」
 なんとなく不安を感じ、しばし後ろ姿を見送る。




 次の日の早朝、志乃はいつも通り宿の中を見回っていた。
 まだ皆が起き出す前に、何か問題が無いか、酔い潰れた客が廊下で粗相をしていないかなどを確認する見回りだ。部屋を覗くわけでもない。ぐるっと決められた順路を歩き回るだけの役目だった。
 その途中、ある客室の手前で彼女は足を止めた。栄助の部屋だ。
 少し覗きたい衝動に駆られながらも、そんな失礼なことをしたことがバレれば女将にも姐たちにも、そして栄助本人にも嫌われるだろうと思い留まる。
 誘惑に引きずられないように足早に通り過ぎようとしたとき、入り口のふすまが開いた。
 ビクッと身を震わせそちらを向くと、栄助が立っている。
「やあ、おはようさん。早いな。」
 栄助は別段気にすることなく、気さくに声を掛けた。
「あ…おはようございます。お早いですね。」
 見ればもう旅支度を調えている。こんな早くに発つのだろうか。そう思って彼の後ろに奏の姿を探した。
「ああ、今日は急ぎの用があってね。…もう出たいんだが奏が見当たらなくて…申し訳ないが、嬢ちゃんが見送ってくれるかい?」
 いつも客と共に夜を過ごすのに、何処に行ってしまったのだろうか。





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